2008.4.11. 日本内科学会が東京フォーラムで開催されました。 専門医とかの資格を持っていると維持のためにも,もちろん,up-to-date な学習のためにも参加せねばなりません。 今回は,空路で行きました。
さて,東京フォーラムですね。
いつもの東京フォーラムですが,なんだかんだと,毎年,会に来てますね。 さて,会の合間(?)に,地下鉄ですっと,飯田橋まで行って・・・・・ 小石川後楽園を散策してきました。 羽田に着いた頃は,まだ,小雨模様だったのですが,急速に好転して・・・好天! テクテクしなばら,広い庭園内をいっぱい歩いて,一杯,写真を撮りました。 ここ で払って(300円),ここ から入園です。 「江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。」 とのことです。
黄門様のお庭ですよね! さて,庭園を反時計周りで,まずは,西行堂跡です。 この辺りには,龍田川が流れていて,碑もありました。 「庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、本庭園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。」ということですよね。 確かに,僕も回遊して回りました。 池に辿り着きます。蓬莱島もあります。 池を眺めるあたりは,紅葉林となってます。秋にまた来たいですね・・・。 この辺りからの眺めです。 そこから東の方へ向かうと少し丘が造られてます。昇っていくのは「延段」という舗道ですね。 丘からは,東に「木曽川」が流れてます・・・・。 また,この辺りも幽谷っていう雰囲気に造られてます。 パンフレットにも深山幽谷って書いてありましたが,まさに・・・ そして,木曽川が,少し淀みを示すと,寝覚滝がありました。 そして・・・・内庭へ向かいます。 元々は唐門があったそうです。 「水戸藩の書院の庭としてあった所で、昔は唐門をへだてて、大泉水のある「後園」と分かれていました。江戸時代は「うちの御庭」と呼ばれた、池を中心にした純日本式の庭園。昔の姿をそのままとどめているといわれます。」 ってことだそうです。 内庭の池は小ぶりですが,良い感じで・・・東京ドームの白い屋根が,空の青と,庭園の緑に映えてます。 内庭にも丘が・・・まぁ,山を模して・・設えてあって・・・富士見台だそうです。 なぜか中国風って印象ですが・・・(ちょっと違うかな?) 閉鎖中ですが,こちらが正門のようです。東向きですね。 水面は静かでした・・・青と緑を映しています。 亀は万年・・・ひなたぼっこです。 木々の一本一本の造形も,なんだか,趣があるように感じられます・・・。 内庭と池の周囲 内庭から,また後楽園の方に向かいます。 水が丘の辺りから,流れ出るところは,「鳴門」と名付けられています。 水門の辺りです。
鷹の碑もあります。 この川面のところは,「舟着」です。 少し奥に入っていくと,赤門があって・・そこには,何故か稲荷神社もありました。 九八屋です。江戸時代の風流な酒亭を再現しているそうです・・・。 酒亭の向かいの辺りは松原だそうです・・・っていうと,遠州かな?
蓬莱島
さて,松原から北を向くと,花菖蒲田・稲田があります。 その奥には,まだ,残っている桜も・・・。 「園の北側地域は、景観が一変します。梅林、稲田、花菖蒲、藤棚の田園風景が展開します。庭園の中に稲田があるのは、後楽園だけでしょう。これは農民の苦労を、水戸光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようと作った田圃で、現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしています。 」だそうです。 そして,不老水の脇を抜けて,梅林の方へ(なんせ,水戸の殿様だから,そりゃあ梅でしょう!) この辺りは,春の陽光に緑が眩しい・・・清々しい雰囲気でした。 カキツバタですよねぇ・・・。 そこここには,色合いを醸し出す花々も・・・ 藤田東湖の記念碑がありました。 藤田東湖(1806年5月4日(文化3年3月16日) - 1855年11月11日(安政2年10月2日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。位階は贈正四位。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことにちなむという(千波湖は後に東側を中心に埋め立てが進み、元の3分の1ほどの大きさになったため、現在の生家跡から東に湖は見えない)。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)と言い、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持つ。 ですって! 水戸からの梅も・・・ 藤棚があって・・・八つ橋です・・・京都? でも,あれはお菓子だけど・・・ この辺りは,また,深山・・が造られてます・・・ 小町塚や八卦堂跡ですね。 愛宕坂・・・京都を模しているそうです・・・ってか,黄門様はやっぱり諸国漫遊ですよね。 でも,良く造られたお庭で,本当に山稜から下界を眺める雰囲気を味わえます。 先ほど見た桜・・・散り急いだのと,まだ,咲き誇っているのと。。。 花びらが風に舞う様子が見えますか? 「 この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。なお、後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮とここの二つだけです。」 とのことです。 さて上の辺りの写真の小川は,神田上水の跡だそうです。で,そこに円月橋がありました。 穏やかな川面ですし・・東京のど真ん中とは思えない・・・まさに,パンフレット通り,深山幽谷の雰囲気です。 休憩所のある辺りが,「萱門跡」でした。 この日は,なんだか,若者のグループが時ならぬ歓声を上げて,何かゲームに興じていました。 そして,山道を歩く気分で歩を進めると・・・得仁堂が見えてきました。 この建物は、光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した堂です。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。 そして,得仁堂を抜けて行くと,通天橋です。朱塗りの橋です。 で,紅葉の頃は,周囲の色に引き立てられるそうです。 で,橋を超えた小高いところには,元,清水観音堂があったそうです。 琉球山っていう様ですが・・・・・。 でも,なんか,下界を見下ろす・・高さ以上に,視界の具合で,高く感じるように造園されているのでしょうか・・感じでした。 下山すると・・・沢渡りがまたあって,音羽の滝が,通天橋の袂から---でも,この日は滝そのものは,はっきり分かりませんでしたけど〜〜 で,沢渡りの辺りは大堰川となってます。 そして,湖にしつらえてあって・・・橋は,渡月橋です・・・京都を模してますよね・・・・。 「この庭園で河の景色を代表する場所。その名は、京都嵐山の下を流れる大堰川にちなんでおり、昔は神田上水から水車で水を汲みあげて流していました。」だそうです。 散り急いだ桜の花びらが・・・なんとない哀愁です。 沢渡りを超えると,長と小廬山の麓で,で,その上には,得仁堂ですね。 このなだらかな峰が 小廬山です。 「一面ブンゴザサでおおわれた、円い築山。その姿、形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたもので、山頂より庭園を見おろせます。 」とのことです。 で,最初に入園した時に見た涵徳亭の裏手に出てきました。 入園して最初の,枝垂桜のある辺りを抜けて・・・蓮池〜一つ松〜丸屋のあたりを最後に散策しました。
少し,葉桜になりつつある桜ですが,花の美しさは,やっぱり青空によく映えます。 丸屋ですね。 そして,池:大泉水の眺めです。あるいは,そこから分かれていく山道などなど・・・。 蓬莱島の中には,弁天様の祠があります。 再び,入園した辺りの桜ですね。 庭園美を満喫とはこのことでしょうか・・・ 東京には,このように大名庭園などが,多くって・・・昼間に少し時間を作れる上京では,いろいろと訪れてみたいものです。 さて,飯田橋で小石川後楽園散策をして・・・その後,これは調整費の仕事絡みですが,市ヶ谷へ移動しました。 外堀公園を外堀と中央本線に沿って移動です。 法政大学がここなのですね・・・知りませんでした。 いいですね,この場所 桜や菜の花や・・・春満喫です。 そして,市ヶ谷・・長い散策も終わりです。 この後,科学技術振興機構の方とちょっと出会って・・・再び,日本内科学会へ! ちゃんと出席カードの印をもらって・・・帰路に付きました。 ついでに,携帯で撮った(散策中に,教室に様子をメールするのに・・)写真も足しておきます。 |